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LD長男と合理的配慮の軌跡② ~小学校高学年・好転期Ⅰ 出会い~    byあさこ

前回、周りに理解の得られない辛い時期でしたが、
ついに『神』的な出会いがあったようです!(E)

前回の記事はこちら↓

小3の後半。前回のドン底期編の最後にも書いた通り、自身の精神状態が少しずつ回復する中で、『LDのことをよく知ろうとしない学校側からの長男の扱い』に納得がいかなくなってきた私は、心の奥から沸々と湧いてくる怒りに似た感情をエネルギーに変えて、学習障害を診てくれる病院を見つけ出した。そして病院のHPから初診の申込書をダウンロードして記入。

ただ、勢いでそこまで辿り着いたら気が抜けて、今度は本当に受診するのが正しいのかどうか、またしばらく悩んだ。長男の現状に対して原因を知りたい、長男本人にもそろそろ「周囲と同じことが出来ない理由」を渡してあげたい、それが本人のためになるはずだと本気で思う。

でも、

原因が分かってしまったら『障害』と名前がついてしまうだろう…。それで良いのだろうか。正直、どれだけ学習障害だろうと内心では確信していても、我が子に公式に『障害』と名の付く診断がつくことに抵抗がない親はいないと思う。診断がついてしまったら、得るものより失うものの方が大きい、なんてことは無いんだろうか…?

これまでも、こんな風に次の一歩へ二の足を踏むことはあったが、そんな時に背中を押してくれるのはやはり長男だった。

あ、いや。

正確には、物言わぬ長男の答案用紙だった。

就学後は全体的に、満遍なくできなかった長男の読み書きは、この頃、リ●リ○のおかげもあって「何が出来ていないのか」が徐々に浮き彫りになっていた。

以前ブログにも載せた画像しか無くて申し訳ないが、文字の形は細かいパーツが覚えきれずにおおよその雰囲気で書いているし、熟語は形に付属する文字の意味と、言葉の意味の近いものを並べているだけで、文字の形と音が全くつながっていない。この答案を見て(あ、やっぱりダメだコレ。病院行こ…)とすぐに初診申込書を送り、その後、学年を跨ぐ3か月待ちで初診の日程が決まった。

小4 一人目の神様との出会い

さて、前置きが長くなったが学年も上がり、担任は他校から転任してきた若い女の先生。初診の予約も取ったし、ここからが本番だと気合を入れた私は臨戦態勢。まずは5月初めの家庭訪問がカギだと意気込み、長男に「今年はどんな先生?」と聞いてみた。

すると、「う~ん…今までの先生とはちょっと違うかもしれない…」というお返事。

つい最近分かったことだが、小3終わりですでに学校に対して限界を迎えていた長男は、「4年生になって1ヶ月様子見をして、やっぱりこの先生も同じだと思ったら、お母さんに『学校にはもう行かない』と泣いてお願いするつもりだった」らしい。

しかし、この会話は5月。長男は、これまでとは違う空気を感じていたようだ。

その答えが分からぬままやってきた家庭訪問当日。にこやかに人のよさそうな先生が現れて少し気が緩む。一通りお互いに日常的なことを申し送りしたあと、

「先生。児童の取り扱い希望の紙にも書いたのですが、読み書きの件で…」と切り出したところ、まっすぐ私の目を見て彼女はこう言った。

「あぁ!あれって『文字が絵に見えちゃう』とか、そういうタイプってことですよね?担任したことはないんですけど、前の学校にもいたので知っています。病院もこれから行かれるってことですし、そのつもりで接していきますね!(にっこり)」

……え?!

どなたか存じませんが、ありがとうございます、先人。

なんて話が早いんだろう、と感動し、心が軽くなったのを私は覚えている。

これが、我が長男LD史に残る、一人目の神様、M先生との出会いである。

そしてあっという間に夏休み。病院で正式に『学習障害濃厚』の診断をもらい、今後のことを相談するために面談したのだが、その時もM先生は「やっぱりそうだったんですね~」と言いながら、今後のこと、主に接し方について親身、かつ肯定的に話を聞いてくれた。

さぁ、ここまで読んでくださっている方は、これから我が家がどのように合理的配慮を交渉し、進んでいったのかを辿る展開を期待してくださっているのではないかと思う。

が、期待に応えられなくて大変申し訳ないのだけれど、この小4診断から小学校卒業までは「担任ガチャで大アタリを引きました」という話で、実は私は何もしていない。

「合理的配慮」を勝ち取るんだ!という気合で診断をとったけれど、そんな言葉を使わなくても、ちゃんと会話が出来る担任が目の前に舞い降りたのだ。

まさにこの世の春。

地獄に仏。

また、M先生という神様を引き当てただけでも十分なのに、さらに、軽い気持ちで3年生時のトラブル続発を材料に攻めていた支援教室の扉が落城、2学期から通級への入級許可を掴んだのだ。しかも、情緒案件で入級したのに、支援計画の半分はLD絡みという嬉しい展開。

ついでになぜかこの年、長男が通う小学校は、特別支援の拠点校になり、職員室には支援教室の先生たちが常駐!

神様は、なぜ神様だったのか

このように、急ピッチで驚くほど整っていく長男の環境…。とはいえ、振り返ると担任のM先生には

・漢字が出来てなくても怒らないでほしい

・覚えられなくても罰則を与えないで欲しい

と、基本的にこの2つしかお願いしてない。

では、なぜ長男と私の中でM先生は神様だったのか。その理由について、思い当たったことをいくつか挙げてみようと思う。

①長男曰く「担任としての基本姿勢」

これは、長男が言っていたことなので、私には知る由もないのだが、M先生は相手によって態度を変えることなく、子供たちを平等に扱い、トラブルがあっても双方から事情を別々に聞き、叱る時も廊下に連れ出して、決して皆の前で見せしめ、吊るし上げで叱ることもなく。校長がいてもいなくてもいつも同じ態度で優しくて…えー…と。誰がどうだったとはあえて言わないけれど、問題児ポジションにいてトラブルがあった時に自分の主張があっても、結局お前が悪い、とヒステリックに怒られてきた長男は「…こんな風にちゃんと一人一人の話を聞いてくれる先生がほんとにいるんだ…。」と思ったらしく、少しずつ心を開いていったらしい。

②長男の努力を、見つけて、認めてくれた

小4にもなると、周囲の読み書きは完全に軌道に乗っている。けれど、M先生は、いつも他の子とは違う物差しで長男の小さな成長を見つけてくれた。例えば漢字の書き取りなど、周囲が当たり前に出来て、長男も必死に形だけは合わせ、でも少し劣っているものでも、長男の努力に気づいてくれて、その度に声をかけてくれた。M先生が個人の采配で、プラスの声掛けをたくさんしてくれたおかげで、長男は徐々に柔らかい顔で笑うようになった。

③LDの存在と、長男がLDである可能性をすぐに受け入れてくれた

親の私は、間違いなくこれである。M先生の前任校にLD児がいたのは我が家にとって幸いだったが、巷にはたとえLDの存在を知っていても「努力不足では?」という方向へ話を展開する方もいる。しかしM先生はそれがなかった。いま長男がどういう状態で、自分はどう向き合うのが望ましいのか、こちらの意向を聞き、ご自身の経験、意見を交えて対話してくれた。

④「勝手に」「思い込みで」「的外れな支援」をしない

Xを見ていると、中にはLD自体は受け入れつつも、なぜか突然、根拠なき思いつきの支援で、しかも謎の正義感でトンデモナイ方向へ暴走をする先生がいらっしゃる。M先生は、私と対話をしながら対応を進めてくれたので、そういう被害は一切受けなかった。

「合理的配慮」に構える先生方へ

改めて見ても、M先生は何か突飛で、特別なことをしてくれていたわけではない。

でも私と長男にとっては間違いなく、地獄から救ってくれた神様だった。

ここから先は、M先生との経験を経て私個人が思うことだが、先生方はいま、受け持つ生徒がLDかも…という話がでると、なにかとても手間のかかる特別な対応を迫られるのでは?と構えてしまう方もいるのではないだろうか。

でも、たとえ日々の学校生活で具体的な配慮の対応が難しかったとしても、まずは③の対応だけでも十分だったりする、と私は思う。

この際、声を大にして言いたいのだが、保護者が先生に「学習障害を疑っている」と相談しに来るのはよっぽどの事態だと思って欲しい。

前述の通り、我が子を公式に障害児にしたい親などいないと思う。まして、ほかの発達障害と違って「LD」を理由にしたプラスの情報など皆無なはず。現在、この国でLDを名乗るメリットなんか、なにもない。(はず)

だからこそ、保護者は「LDかも?いや、違うかも…」という葛藤を何度も何度も、本当に何度も繰り返し、「思い過ごしであってほしい」と思いつく限りのフォローを試して、我が子に伴走し、様子を見守り続けて、学校に相談する頃には「もう、LDしか答えがない」ところまできている、ということを知ってほしい。

だから、その時は「この先の話」がしたいのだ。先生がその姿勢で聞いてくれるだけで、こちらはどれだけ救われるか分からない。それなのに、決死の想いで相談した結果「努力不足では?」と振り出しに戻される絶望が想像できるだろうか。

また、具体的な合理的配慮の内容については、私はたった一度の面談で決めるものではなく、対話を続けて決まっていくものだと思う。保護者が提示していたやり方の実現が難しいのなら、門前払いにするのではなく、まずは理由を伝え、目的を聞いてほしい。

「問題の読み上げ」を例にとると、保護者は「読み上げをしたい」のではなく、「子供本人の読みの負担を減らしつつ、なにを問われているかを本人が確実に知れる方法」を探している。それが叶うなら、方法は必ずしも「読み上げ」である必要はないのだ。

ただし、これは保護者もまた同様で、お互いがお互いの背景や事情に耳を傾け、譲れるところを譲る姿勢がないと、それぞれが納得できる合理的配慮の実現はまだまだ厳しいと感じている。

キリが良いので、長男が小学校で受けてきた通級指導や配慮の内容の話は次回にして、最後にひとつ、私が、長男が中3のいま、思っていることを加えたいと思う。

先ほど「まだまだ厳しい」とは書いたけれど、私は、M先生が家庭訪問の時に言っていた『前の学校にもいました』という言葉が、公立で合理的配慮が広がる希望だと思っている。中学でもこの言葉に助けられたことがあった。

どの学校でも、合理的配慮を受ける第一号は、1人の誰かではあるけれど、その第一号の目撃者は1人ではない。それを知っている先生たちが異動で混ざり、広がる。あちこちの事例が合わされば、きっと提案されるものに選択肢が出来る。

そうなるまであと5、6年はかかるだろうとは思っているけれど、その頃の公立の義務教育校の現場では、きっとLDと合理的配慮の実例を知っている先生の方が、多数を占めるようになるはずだと思う。そして「努力不足」を疑われたり、前例が無いことを理由に合理的配慮を断られたりするケースは、かなり減っているはずだと信じたい。(つづく)

あさこさんのブログ  漢字が苦手なコースケは、https://kanjiganigate-k    あさこさんのX(旧Twitter)https://x.com/asaco0228

(あさこ)

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